2021年公開の『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』は、ミラ・ジョヴォヴィッチ主演の6部作とは根本から異なる文脈で誕生しました。本作の監督である英国人監督ヨハネス・ロバーツは2018年12月、本作の監督・脚本に起用され、当初ジェームズ・ワン&グレッグ・ルッソが手がけていた企画を白紙に戻して一から再構築しました。自他ともに認めるゲームシリーズのファンである彼が掲げたのは、ゲーム1作目と2作目への「純粋な回帰」という一語でした。
ロバーツ監督は、インタビューでCAPCOMの開発者たちに設計図の提供を求め、洋館とラクーン市警察署のセットを実際の仕様に基づいて建設したことを明かしています。この製作姿勢は、作品に恵みをもたらすと同時に、最大の呪縛にもなってしまっていた。それが筆者の第1印象です。

ヨハネス・ロバーツの作家性
『海底47m』(2017年)でほぼ全編を水中で撮影し、制作費500万ドルで興行収入6,200万ドルを叩き出した実績は、このイギリス出身の監督が「限られた空間と感覚遮断」の演出に抜きん出た才を持つことを示しています。深海という密室で酸素残量と心理的恐怖を天秤にかける手法は、『バイオハザード』の原点に接続する回路を持っていました。
本作の前半1時間、洋館に閉じ込められるパートはその証明といえるでしょう。暗闇をほぼ視覚情報として遮断し、ゾンビの全貌を観客に与えない。銃口の火花だけを光源とした銃撃戦の場面では、見えないことへの恐怖が画面に静電気のように帯電します。これは単なる低予算の工夫ではなく、ロバーツが一貫して追い求めてきた「感覚の剥奪」という美学の延長線上にある演出です。
そして洋館のメインホール、ラクーン市警察署のエントランスにそびえ立つ女神像、地下への列車など、ゲームプレイヤーなら思わず「ここだ!」と叫びたくなるような場所が次々と登場します。特に印象的だったのは、ピアノを弾くと隠し扉が開くという、ゲーム特有の謎解き要素まで取り入れた点です。こうした細部へのこだわりからは、監督のみならず制作陣の原作愛が強く伝わってきます。
予告を観た段階ではファンとしてはとても楽しみでした。
ゲームという記憶の建築
本作の美術部門がセットと小道具の精度はとにかく精度が高いものばかりです。原作ゲームを制作しているCAPCOMから提供された設計図をもとに建設された洋館メインホールとRPDエントランスの再現度は、ゲームプレイヤーに場所の記憶を刺激する力を持っています。ピアノを弾くと隠し扉が開くという謎解き要素の映像化、ラクーン市警察署の証拠保管室の暗証番号に初代『バイオハザード』の発売日を使用するといった仕掛けは、作品を見る行為をほとんど宝探しに変えてしまう。
『バイオハザード RE:2』冒頭でトラックのドライバーがハンバーガーを頬張るカット、「かゆうま」日記の字幕——こうしたオマージュに秘められているのは、原作への愛情というより、共同体的な記憶の確認作業に近いでしょう。ゲームファンが「わかってる」と静かに膝を打つ仕掛けの精度において、本作は他のゲーム実写化作品の多くを上回っています。
リッカーの造形も特筆に値します。天井を這い、犠牲者の首だけを運び去るという原作ディレクターズカット版特有の演出まで盛り込んだ点には、限られた予算の中でプラクティカルエフェクトを極力使用しようとしたロバーツ監督の意地が見えるでしょう。

また、ゲーム内の有名な「かゆいうま」日記も映像化されており、字幕でしっかりと「かゆい うま」と表示される演出には思わず笑みがこぼれます。RPD(ラクーン市警察署)の証拠保管室の暗証番号が初代『バイオハザード』の発売日になっているといった、気づく人だけが気づく仕掛けも用意されています。
この映画はなぜ失速したのか?――107分という構造的な無謀
二本分の物語を一本の映画に詰め込む代償
前半のホラー演出に宿った緊張の糸は、しかし後半になるほど急速に解けていってしまいました。その原因は演出の質ではなく、企画の設計そのものにあるといえるでしょう。
ゲーム1作目(洋館を舞台にした密室サバイバル)と2作目(警察署からの脱出劇)は、それぞれが独立した物語の容積を持っています。これらを107分に圧縮するという決断は、どちらの物語も呼吸できない状態に追い込みました。クリスとジルが洋館を探索する傍らでクレアとレオンが警察署で交戦し、そこにウィリアム・バーキンの陰謀とリサ・トレヴァーの背景が割り込んでくる。並走する物語の数が多すぎて、どの筋にも感情移入の余地が生まれません。
キャラクター造形の致命的な浅さ
詰め込みの弊害が最も顕著に現れるのは、キャラクター描写の薄さです。
その中でレオン・S・ケネディは本作最大の犠牲者でしょう。ゲーム2作目では機転と胆力で窮地を切り抜ける新任警官として描かれていた彼が、本作では武器庫でショットガンの扱いに戸惑う場面が象徴するように、終始ふるまいきれない人物として画面に存在し続けます。過去の失敗によりラクーンシティへ左遷されたという設定が追加されながら、それが物語のなかで何も機能しない点が象徴的です。設定は付与されても、その設定を生かす時間が映画には残されていませんでした。
アルバート・ウェスカーの改変は、さらに根深い問題を孕んでいます。ゲームシリーズを通じて冷酷な知能犯として描かれてきた人物が、本作では黒幕からの指示に従うだけの存在として機能する。謎の人物の影に踊らされる小物の姿は、ゲームファンが知るウェスカー像と著しく乖離しており、ラストのサングラス着用というオマージュ的演出が逆に空虚に映ってしまいます。

独自設定の可能性と放棄
クリスとクレアの兄妹がアンブレラ社の養護施設で育ち、そこでウィリアム・バーキンによる実験を受けていたという設定は、ゲームのキャラクターたちに映画独自の原体験を与える試みとして一定の意義を持ちえたでしょう。
しかし、この設定もまた表面的な言及にとどまり、ドラマ的な深みへと展開することなく消費されます。結局なんだったのか?
そして最も惜しまれるのはリサ・トレヴァーです。ゲームで悲劇的な被験者として記憶されるキャラクターを、幼少期のクレアの理解者として再解釈した発想は決して悪くない。しかし彼女は、必要な場面にのみ都合よく現れ、地下へ向かうクレアを見送ってフェードアウトするだけの装置として消えてしまいます。変異した存在が人間的な絆によって主人公を守るという物語の可能性は、尺という制約の前に沈黙しました。
映像と実写化の宿命――予算の制約とゲーム体験との競合
予算の制約が生んだ二面性
本作の映像面は、明暗が極端に分かれています。力を入れるべき場所には力を入れ、そうでない部分は妥協するという、低予算映画特有のメリハリが見られます。
前述の通り、洋館のメインホールやRPDのエントランスなど、ゲームファンが「見たい」と思う場所の再現度は高く、ディテールまで丁寧に作り込まれています。特に洋館のエントランスは、照明の使い方まで含めてゲームの雰囲気を見事に再現しており、ここを見るだけでも価値があると言えるでしょう。
しかし、一歩そこから離れると、途端にセットのクオリティが落ちます。メインホールから別の部屋に入った途端、急ごしらえのプレハブ小屋のような安っぽさが露呈してしまうのです。このギャップがあまりにも激しく、作品への没入感を大きく損なっています。
CGIについても同様の問題があります。クリーチャーの造形は頑張っていますが、背景や爆発シーンなどのCGIは、2004年や2006年頃のテレビ映画を思わせる古臭さです。特に終盤のアクションシーンでは、このCGIの粗さが目立ってしまい、緊張感が削がれてしまいました。
ホラー演出の明暗
ロバーツ監督のホラー演出は、前半では確かに効果を発揮していました。暗闇を効果的に使い、ゾンビの姿を完全には見せないことで恐怖を煽る手法は、『海底47m』で培った技術が活かされています。
洋館での初ゾンビ遭遇シーンは特に秀逸でした。背を向けていた人物がゆっくりと振り向き、その腐敗した顔が露わになる瞬間は、ゲームでトラウマを植え付けられた名シーンの再現として完璧です。銃口の火花だけが唯一の光源となる暗闇での銃撃戦も、視覚的に非常に効果的でした。
しかし、後半になるにつれて、このホラー演出は影を潜めていきます。物語が慌ただしく展開し始めると、じっくりと恐怖を醸成する余裕がなくなってしまうのです。リッカーとの戦闘シーンも、もっと緊迫感を持って描けたはずですが、あっさりと処理されてしまいました。
まとめ:原作愛だけでは映画は完成しない
『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』は、ゲームの記憶を映像に変換しようとした誠実な試みです。しかし映画的な文法——キャラクターの内面への掘り下げ、物語の弛緩と緊張の制御、テーマを体現する行為の積み重ね——は、原作への再現衝動と正面から向き合うことなく終わってしまったでしょう。
ヨハネス・ロバーツが前半1時間に見せた演出は本物でした。暗闇と空間の圧迫を操る手腕は、このシリーズをホラーとして再生させる可能性を確かに示していた。それだけに、二本分の物語を一本に詰め込むという初期設計の判断が、そのポテンシャルを削ぎ落としてしまったことが悔やまれます。
原作への忠実さと、映画として自立した魅力を同時に追求することの困難さ。本作はその命題を、未解決のまま画面の外へ投げ出していきます。


